'73年5月6日、東京府中競馬場で催されたNHK杯。前評判の高かったハイセイコーはゴール200mの距離で5,6番手につけていた。ラストスパートがかかるや、17万人の大観衆の歓声を受けて、ハイセイコーはぐんと加速して、首位のカネイコマを首の差で抜き切った。
10連勝を果たしたハイセイコーに、スタンドは歓喜の渦に巻き込まれた。薄氷の勝利ではあったが、この「居並ぶ名馬をゴボウ抜き……(走れコータロー)」という姿に、ファンの心は熱く燃えのである。
ハイセイコーが5月27日の日本ダービーに登場すると、単勝支持率は、66.6%で、単勝オッズはなんと110円という数字になった。残念ながら3位という結果に終わって不敗神話は破れたが、人気はますます過熱した。今まで、競馬の「け」の字も扱おうとしなかった女性週刊誌や少年マンガがハイセイコーの特集を組んだ。「週刊少年マガジン」の表紙('73年6月17日号)にもハイセイコーが登場している。
チャイナロックを父にもつハイセイコーは、'70年、北海道新冠(にいかっぷ)の武田牧場で生まれた。大井競馬場での初出走は着差8馬身という圧倒的な勝利をものにした。公営競馬での6戦はすべて2着との差が7馬身以上の圧勝だった。'73年、中央競馬に移籍すると、多くのファンがハイセイコーを応援した。5歳のハイセイコーは'74年の12月までの22戦13勝という成績を残し、ライバルのタケホープらと名勝負を繰り広げたのち、引退した。
引退を受けて、増沢末夫騎手は「さらばハイセイコー」をレコーディングした。'74年暮れにリリースされるとたちまち話題になり、師走の街には「誰のために走るのか、何を求めて走るのか」という増沢騎手のあまり上手とはいえない歌声が街にあふれた。
「怪物」と呼ばれたハイセイコーにちなむ人物には、第45回選抜大会で三振の山を築いた「怪物」江川卓、「演歌のハイセイコー」と呼ばれた藤正樹らがいる。
ハイセイコー・ブームは、「名もない地方出身者が、中央のエリートに挑戦する」「地方から這い上がった野武士が貴公子に挑む」というマスコミがつくったストーリーが話題につながったと分析する人もいる。作家の石川喬司は、挫折を経ても一生懸命走り続けるハイセイコーの姿に「高度成長の挫折に見舞われた人間界からは失われつつあるものを見出し、その無垢な生物の素顔にしびれた」と述べている。 |