京都の生活に慣れてくると、仕送りだけで生活するのは難しくなる。そこで「豊かな生活」を求めてバイトを始めた。学生課の横にバイトの情報が貼ってあり、申し込むと紹介してくれた。

'73年当時、時給は250円〜300円で一日2,000〜2,400円でバイトがあった。生活費が底をつき、一日でも早くお金が欲しいときは展示会の内装手伝いが手っ取り早い。

 浪人していたH君はこのことを「ゼニヤ」と呼んでいたが、京都の内装屋の大手の名前と「すぐ銭になる」ことを併せて、そう呼んでいたのかもしれない。堀川沿いに会社があったが、ほとんどは現地集合である。簡単な力仕事で、装飾台や設営用の壁を移動して、布を置いていく。学生が20人ほど必要なために断られることがなく、しかも設営が早くすめば、そのまま「帰ってよし」となるので、効率のよいバイトだった。

 ほかにも、京都らしく祇園祭や葵祭のバイトもあった。映画のエキストラの仕事が貼られていたりもしたが、これらは競争率が高く、しかもギャラが少ないのでボクはあまり参加しなかった。
 学生生活に慣れてくると、短期間のバイトよりも長期間のバイトがしたくなる。希望は時給の高さはもちろんだが、「賄いつきバイト」の方がありがたい。こうなると飲食店のバイトがいいのである。

 2回生のとき、ボクは旅館の住み込みのバイトをしたことがある。ゴールデンウイークに友だちがやってくるので、それを前に軍資金が必要になってくる。仕事は風呂などの掃除と蒲団敷き、食事の用意が主な内容で、仲居さんといっしょに心付けをもらえたりもする。バイト期間が終わって、旅館のご主人からは、ずっとここで働いてほしいともいわれたが、下宿が気になってそれきりにした。

 家庭教師や旅行会社の添乗員も人気があったが、お中元やお歳暮の時期になると、デパートから求人が来る。女性の多い食場なのでこれも学生の希望するバイトとなっていた。女性とつき合えるチャンスのあるバイトとして高い人気を誇っていた。

 ボクは、2回生の秋から炉端焼き屋のバイトを始めた。2階は焼肉コーナーになっていて、そこは学生たちが仕切っている。そこに大学の友だちから声が掛かり、1年以上働いた。そのあと、そこの店長からスナックを借り受けて、スナック経営をするようになる。

 他の下宿人たちのバイトもやはり、喫茶店やラーメン屋などの賄いつきバイトが多かった。当時の「王将」は忙しいのだが時給が高く、バイトをしようかという気にさせた。結局、バイトには応募しなかったが、もともと調理に興味があったから、バイトをさせていただいてたら、そのまま居着いていたかもしれない。

 ボクの趣味は絵を描くことだった。小さい頃から絵、とくにデザインが得意で何度も賞をもらった。ポスターで全国2位になったこともある。一時は美大に行こうかと考えたこともあったが、デッサンが得意ではなく、次に成績がよかった国語を究めようと文学部の日本文学を専攻しようと考えたのである。

 当時から活躍していた和田誠さんの影響を受け、似顔絵を中心にイラストを描いてパネルをいくつもつくった。バネルを買うと高いので、近くの木材店で角材とベニヤ板を買いベニヤはカッターで、角材は鋸で切って木工用ボンドで貼付けてパネルをつくる。その上にケント紙や画用紙を貼ってパネルにして絵を書くのである。

 そのころ、どのような絵を描いたのかよく覚えていないのだから、ほとんど大した絵ではなかったと思う。先日の同窓会で、ビートルズを描いたものをもらったという人がいたから、暇つぶしを兼ねて描いていたのだろう。のちにシルクスクリーン版画をしたこともあるが、公募にも出さずにやめてしまった。

 村上龍の『限りなく透明に近いブルー』で、ゴキブリが絵を舐めるシーンが出てくる。「限りなく透明に近いブルー」の色は、絵の具を舐めたゴキブリを叩き潰したときの体液の色なのである。ボクも同じような経験をしたことがある。黒いポスターカラーを塗った絵を部屋に置いていたのだが、塗ったと思ったその部分が剥げている。何度か塗ったが、何日か経つとやはり剥げている。不思議だなと思っていたら、小さなゴキブリが出てきたので叩き潰した。すると茶色のゴキブリの身体から黒い色がしみ出してきた。部屋に食べるものがなかったので、ゴキブリがポスターカラーを食事代わりに舐めていたのである。残念ながら、ボクはそのことを文章にすることはなかった。

 高校時代は音楽にも凝っていた。郷里のステージに一度だけ立ったこともあるが、ギターはあまりうまくない。高校1年から予選会のときごとにフォークバンドをつくって出場していたが、ギターからベースに回されるくらいで、たいしたことはない。ただ、ウッドベースを知りあいの音楽教室で借りて横にセロテープを貼り、フレットのないベースでなんとか音程を確かめながら演奏することができた。そのころのバンドのベースはコードの根音と五音、歌の間にベースランを入れる程度の簡単な演奏だったから、ほとんど格好をつけているだけだった。

 下宿人たちも、音楽好きが多かった。ギターを弾ける人もたくさんいて、部屋からギターのメロディが流れてくることもあった。ギターの練習で固くなっていた指先も、いまではすっかり軟らかくなってしまった。月日が経つと心が変化していくように、身体もまたカタチを変えるのである。


これからも作品は続きます

僕の『京都同やんグラフィティ』は、1973~1976年の間、
同志社大学(小説では同夢舎大学)に入学し、
京都で過ごした思い出を虚実おり混ぜて小説にしたものです。

「青雲篇」「劣情篇」「堕落篇」という3部作を構想していて、
「青雲篇」は、瀬戸内海の小都市から出てきて右も左も分からない主人公が右往左往する話です。
「劣情篇」は、女性との付き合いが中心になります。初体験から突然のモテ期が到来し、
当時の女性の考え方や愛し方などをつづります。
「堕落篇」は、ひょんなことから学生ビジネス(飲み屋)を始めることになった主人公が、
さまざまなことにチャレンジする話です。

「青雲篇」「堕落篇」をご期待ください。


¥300
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