ボクたちが下宿で酒盛りをするときには、安いウイスキーを選んだ。氷がなくても、水で割れば飲めるし、濃い酒が好きならばストレートであおればいい。ツマミはピーナツやサキイカ、豆などの乾きもので、何かのたびに集まった。たまに日本酒も飲むが、深酒すると翌日に酒が残る。だから、自然とウイスキーになった。

 トリスやレッド、ハイニッカも、翌日頭が痛くなるという理由で避けられ、サントリーホワイトやブラックニッカをよく飲んだ。安いウイスキーの白黒対決である。バイト料が入ったときは「角」になる。「ダルマ」こと、オールドはめったに飲めない。リザーブなど、夢のまた夢であった。

 ある日、酒屋に行って焼酎を見つけた。1升瓶で1000円以下だったと思う。安かったので早速買い、みんなで飲もうということになった。ボクは、帰省したとき、友だちから聞いた「ポン大体操」というのを披露した。大瀧詠一がつくった三ツ矢サイダーのCMソング「あなたがジンとくるときは、私もジンとくるんです」にあわせて、腕立て伏せをする。そのあと焼酎をあおり、洗面所に水を汲みに何度か走ったら、記憶が急にとぎれた。目覚めると、やはり頭が痛い。みんなもぐったりしている。その日から、僕は焼酎が嫌いになった。

 外で飲むこともあった。ボクたちには、何軒もハシゴする余裕はなかった。一軒を決めたら、そこでずっと過ごす。カラオケはまだなかった。酒を飲みながら、さまざまな話で楽しむ。飲み屋は、喉を競う場所なんかじゃなく、色々な人との会話を楽しむ社交場だった。

 当時は「洋酒喫茶」というのがあった。ボクがよく行ったのは三条河原町を一筋か二筋下ったところにあった「田園」という店だった。大きな丸テーブルを囲んで、酒を飲む。バーテンダーは、京都産業大学の学生で、気さくにボクたちと話してくれる。ジンなどの安い酒をキープしておけば、幾分かの加工料でカクテルをつくってくれた。「ジンフィズ」や「ジンライム」など、はじめてカクテルの味を知ったのはここである。何色もの層がある「高瀬川」なんていうオリジナルカクテルを飲んだりした。

 ナンパ目当ての会社員が、彼女とふたりで飲んでいるところに割り込んできて、手相を見てくれたこともあった。そこに居合わせた女性客にお酒をおごることもよく行われていた。ボクたちは酒を飲むための店と考えていたが、どうもナンパ目的の「ハント・バー」だったようだ。

 ボクはA君といっしょに「パブ」でバイトをしたことがある。「ロイヤルパブ」という店で、蛸薬師辺りにあった。最初はホール係だったのだが、次第に従業員の姿が消えていく。終いには、A君はバーテンダーになり、ボクは調理のチーフになった。店長やマネージャーは次々と変わり、典型的なお水カップルしか最初に働いていた人はいなくなった。ボクたちは、こうした行雲流水ぶりに恐れをなし、あとから働きだしたベトナム人留学生バイトにバトンを渡したのであった。

 3回生のとき、ボクはスナックを経営した。バイトをしていた炉端焼き屋の店長が、金をくすねて愛人に経営させていた5坪ばかりのスナックの権利を安くゆずってくれるという。店は繁華街の木屋町のビルの2階にあった。

 ボクはA君と、大学を出たら喫茶店を開こうと約束しており、生活をバイト代でまかない、仕送りに手をつけずそのままにしていたので、幾分かのお金が貯まっていた。A君にスナックを始める話をすると、約束が違うと未来の計画は消えてしまった。ボクはこのスナック経営で、持ってる金をさらに増やしたかったのである。

 店は炉端焼き屋の板前さんの共同経営で、学生を主体に安く飲める店をめざした。持っていた日本のフォークとロックのLP100枚ほどをかける音楽の飲み屋として客を集めようとした。しかし、10席ほどの小さな店では大儲けというわけにはいかない。ボクの計画は、大きな規模の店でしか活きないものだったのである。

 利益はそこそこあがったが、お客とのつきあいなどで消えてしまう。学生にとっては贅沢な収入だが、板前さんにとっては大変な暮らしだっただろう。当時のボクは、そんなことに気がつかなかった。知り合いから呼びかけられたブルースのコンサートに資金参加を決めたが、これが大赤字。店の保証金で支払おうと思ったのだが、結局、金は返ってこなかった。店は1年ほどで閉めてしまった。

 75年から76年にかけて、雑誌「POPEYE」の創刊や「USAカタログ」の発刊で、アメリカ西海岸の文化が上陸してきた。そうした雰囲気のなかで、バーボンに注目が集まっていた。その頃のボクたちは、アーリータイムスやI・W・ハーパーを気取って飲んだ。個性を究めるときはフォア・ローゼスやカナディアン・ウィスキーの「カナディアン・クラブ」を飲む。バーボンのハイボールを頼むときは「ガス割」と呼んだ。ジャック・ダニエルやワイルド・ターキーは高嶺の花で、なかなか飲めるものではなかった。

 当時、サントリーからバーボン風の味付けをした「ローハイド」というウイスキーが出た。アーリータイムスよりも幾分か安かったが、ボクたちは「バーボン」そのものよりも「アメリカ」の香り漂う酒が飲みたかったのである。発売当時、幌馬車のペーパークラフトのプレミアムキャンペーンがあったりしたが、いつの間にか姿をみせなくなった。何度か飲んだことは確かなのだが、その味を思い出せない。


これからも作品は続きます

僕の『京都同やんグラフィティ』は、1973~1976年の間、
同志社大学(小説では同夢舎大学)に入学し、
京都で過ごした思い出を虚実おり混ぜて小説にしたものです。

「青雲篇」「劣情篇」「堕落篇」という3部作を構想していて、
「青雲篇」は、瀬戸内海の小都市から出てきて右も左も分からない主人公が右往左往する話です。
「劣情篇」は、女性との付き合いが中心になります。初体験から突然のモテ期が到来し、
当時の女性の考え方や愛し方などをつづります。
「堕落篇」は、ひょんなことから学生ビジネス(飲み屋)を始めることになった主人公が、
さまざまなことにチャレンジする話です。

「青雲篇」「堕落篇」をご期待ください。


¥300
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