'70年代は「アンアン」や「ノンノ」が京都を競って特集していた。ボクは、四国出身なので、東京の大学に行った友だちや女の子が、帰省や上京の途中でよく訪ねてくる。だから、ゴールデン・ウィークや夏休みの前後は、少し忙しくなる。京都を訪ねてくる彼女たちは、事前に情報をチェックしていて、案内の場所をリクエストしてくる。人気は嵯峨野や嵐山で、次に東山の散策。東山からは、繁華街が近いので、女性雑誌に載っていない穴場スポットや路地の楽しさがレクチャーできる。当時の国鉄が行った「ディスカバージャパン」のキャンペーンとも重なり、京都はあこがれの観光地になっていた。高校時代のセーラー服と違い、私服を身に着けている女の子の今までと違うイメージに、ドキドキしたこともある。

 ボクは、そういう彼女たちのために、案内のコースをつくり、旅行代理店の添乗員さながら皆を案内することに決めていた。大きく分けると「嵐山・嵯峨野」「清水・東山」「河原町・新京極」という3つのコースであった。

「嵐山・嵯峨野コース」は、下宿のある帷子ノ辻から近く、嵐電に乗って嵐山駅まで行けば庭園で名高い天龍寺があり、南に向かうと渡月橋になる。静寂の風景を楽しむなら、竹林のなかを進んで嵯峨野を歩き、紅葉の名所・常寂光寺や松尾芭蕉の弟子・向井去来の建てた落柿舎、平清盛に愛された白拍子・祇王ゆかりの祇王寺などがあり、数千の石仏が並ぶ化野念仏寺や愛宕念仏寺などの寺院が点在している。この辺りの歴史を披露し、残暑のまだ残る夏の終わりなら涼やかな散策が楽しめた。

「清水・東山コース」は、阪急四条河原町駅から素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祭神とする祇園神社の総鎮守・八坂神社や浄土宗の総本山・知恩院に向かい、時間があれば隣接する円山公園で庭園を眺める。南に歩き、豊臣秀吉の妻・ねねが建立した高台寺の門前にある文の助茶屋で甘酒を飲む。土産物屋が並ぶ三年坂(産寧坂)の石段で「ここで転んだら三年以内に死ぬ」という言い伝えがあると軽口を叩きながら清水寺を訪れ、清水の舞台から天下の絶景を楽しむというコースを巡る。この頃は、清水寺に隣接する地主神社が縁結びの神さんであることなど少しも知らなかった。もちろん、京都に来た友だちからそこの案内をリクエストされることもなかった。

「河原町・新京極」は、夜の観光コースである。新京極の観光スポットをうろうろして高瀬川沿いの木屋町へ出る。先斗町との間にある路地(ろうじ)を通り抜けたり、飲屋街をうろうろして京都の夜を満喫するのである。運がよければ、舞妓さんに逢うこともできる。歩き疲れたら名曲喫茶「あみゅーず」や高野悦子の『二十歳の原点』に登場する「六曜社」、辻利で抹茶パフェを食べてもいい。

 希望する観光スポット以外に、観光本に登場しないところへ案内したり、知られざる京都の日常をみせたりすると、ボクの株はうんと上がるのであった。ボクの高校時代のクラブは史学部、いわゆる歴史研究会なので、こうした現地調査やリサーチはお手の物だったのである。

 '70年当時、映画は斜陽の道を辿ってはいたが、まだ娯楽の一角を大きく占めていた。映画館はロードショー一本やりではなく、少し遅れて劇場に人気の映画がかけられる二番館があり、3ヶ月から半年くらいあとの映画が上映される三番館、懐かしの映画や作家性の強いフィルムをかける名画座もあった。例えば名画座は、ロードショーが800円の時代に、3〜4本の上映で2〜300円だった。

 ボクたちは暗闇に照らし出される映画に向かって野次や歓声を投げかけた。面白いシーンや映画に似合った台詞が登場すると「異議なし!」という声が観客席から湧いてくる。

 学生の間で人気が高かった名画座は、京都の北、宮本武蔵と吉岡一門の決闘で名高い一乗寺にある「京一会館」であった。市場の二階にあったこの映画館で、実相寺昭雄の「無常」や大島渚作品などを観た。驚かされたのは鈴木則文監督の「温泉スッポン芸者」で、同志社大学のキャンパスや、ボクたちが授業の合間に移動する道がえんえんと映し出されていた。主演の杉本美樹は女子学生という設定だった。八坂神社の近くの「祇園会館」は「京一会館」より少しオシャレで、三本立てで上映される作品も、文芸の香りが漂うものが多かった。

 大学でも新町キャンパスの学生会館で映画がよく上映されていた。1本100円のカンパで懐かしの名作を見ることができる。例えば、鈴木清順監督の「殺しの烙印」「けんかえれじい」「東京流れ者」はこの100円の上映会で楽しんだ。

 気になるのは黒澤明監督の「七人の侍」を観たときである。不覚にも寝てしまった。何度も「七人の侍」を見直したが、眠くなるところなど、ひとつもない作品である。徹夜をしていたとか、体調が悪かったとか、何かあったのかしらん。

 映画ではないが、キャンパスでうろうろしていたら、裸に白塗りの集団がやってきて、パフォーマンスを始めた。腹から、赤いペンキで塗られた縄を臓物さながらに引き出し、再び臓物を腹にしまい再生のイメージを踊っている。身体を低く鎮め、ゆったりとした動きのそれは「暗黒舞踊」と呼ばれるパフォーマンス集団であった。ビラを配り終えると、彼らは学生会館に向かった。そして、会館から下がる縄をゆっくりと登りながら、太陽を指差して何かを叫んだ。まるで、大きな会館の前に虫がのそりのそりと動いているかのようだ。ちっぽけな存在であっても何かを残すことができるということを示しているようでもある。

 太陽の下では、何をやっても自由だということだったのだろうか。きわめて示唆深い、異様な風景が目の前に登場し、ボクたちの感情を刺激した。だが、白塗りの彼が屋上まで登ってしまって姿が見えなくなると、いつもの学生会館の風景が広がっているだけだった。

「ほんやら洞」のマスターで、今は木屋町でバー「八文字屋」を営む甲斐さんに伺ったら、この白塗りの男は、俳優の田中泯じゃないかと教えてくれた。僕は「大駱駝艦」のメンバーかと思っていたが、長年の疑問が氷解した。


これからも作品は続きます

僕の『京都同やんグラフィティ』は、1973~1976年の間、
同志社大学(小説では同夢舎大学)に入学し、
京都で過ごした思い出を虚実おり混ぜて小説にしたものです。

「青雲篇」「劣情篇」「堕落篇」という3部作を構想していて、
「青雲篇」は、瀬戸内海の小都市から出てきて右も左も分からない主人公が右往左往する話です。
「劣情篇」は、女性との付き合いが中心になります。初体験から突然のモテ期が到来し、
当時の女性の考え方や愛し方などをつづります。
「堕落篇」は、ひょんなことから学生ビジネス(飲み屋)を始めることになった主人公が、
さまざまなことにチャレンジする話です。

「青雲篇」「堕落篇」をご期待ください。


¥300
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