3回生のとき、ボクはスナックを経営した。バイトをしていた炉端焼き屋の店長が、金をくすねて愛人に経営させていた5坪ばかりのスナックの権利を安くゆずってくれるという。店は繁華街の木屋町のビルの2階にあった。
ボクはA君と、大学を出たら喫茶店を開こうと約束しており、生活をバイト代でまかない、仕送りに手をつけずそのままにしていたので、幾分かのお金が貯まっていた。A君にスナックを始める話をすると、約束が違うと未来の計画は消えてしまった。ボクはこのスナック経営で、持ってる金をさらに増やしたかったのである。
店は炉端焼き屋の板前さんの共同経営で、学生を主体に安く飲める店をめざした。持っていた日本のフォークとロックのLP100枚ほどをかける音楽の飲み屋として客を集めようとした。しかし、10席ほどの小さな店では大儲けというわけにはいかない。ボクの計画は、大きな規模の店でしか活きないものだったのである。
利益はそこそこあがったが、お客とのつきあいなどで消えてしまう。学生にとっては贅沢な収入だが、板前さんにとっては大変な暮らしだっただろう。当時のボクは、そんなことに気がつかなかった。知り合いから呼びかけられたブルースのコンサートに資金参加を決めたが、これが大赤字。店の保証金で支払おうと思ったのだが、結局、金は返ってこなかった。店は1年ほどで閉めてしまった。
75年から76年にかけて、雑誌「POPEYE」の創刊や「USAカタログ」の発刊で、アメリカ西海岸の文化が上陸してきた。そうした雰囲気のなかで、バーボンに注目が集まっていた。その頃のボクたちは、アーリータイムスやI・W・ハーパーを気取って飲んだ。個性を究めるときはフォア・ローゼスやカナディアン・ウィスキーの「カナディアン・クラブ」を飲む。バーボンのハイボールを頼むときは「ガス割」と呼んだ。ジャック・ダニエルやワイルド・ターキーは高嶺の花で、なかなか飲めるものではなかった。
当時、サントリーからバーボン風の味付けをした「ローハイド」というウイスキーが出た。アーリータイムスよりも幾分か安かったが、ボクたちは「バーボン」そのものよりも「アメリカ」の香り漂う酒が飲みたかったのである。発売当時、幌馬車のペーパークラフトのプレミアムキャンペーンがあったりしたが、いつの間にか姿をみせなくなった。何度か飲んだことは確かなのだが、その味を思い出せない。 |