ボクは同志社大学文学部文化学科に合格した。専攻は日本文学で、東京では青山学院大学と中央大学の文学部に合格していた。仲のよい悪友たちのほとんどが東京に進んでいたので、青山と同志社のどちらにしようかと迷ったが、授業料の安さで同志社大学に決めのだった。
 我が高校からは40名ほどが合格し、そのうちの10名余りが同志社大学に進んでくる。郷里には明治にできた四国初のキリスト教会があり、同志社で学んだ徳富蘆花が講師をつとめたこともあって、同志社との関係は強かった。

 大学をつくったのが新島襄であることは承知していたが、妻の八重が有名な人物だったとは、のちにNHKの大河ドラマの主人公になるまで全然知らなかった。入学試験で初めて同志社大学を訪れたとき、赤れんがの建物が並び、緑の豊富な美しいキャンパスであることに、感銘を受けた。高校のクラブの先輩から、フォークの神様・岡林信康、SF作家の筒井康隆らを輩出し、ぼっちゃん・お嬢ちゃん気質の学生が多いと聞いていた。あとで知ったが、当時から若手SF作家として注目されていた山尾悠子さんは、ボクの同級になる。

 入学式は、同志社女子大の栄光館で行われた。女子大といっても、同志社大学と女子大は隣り合わせになっていて、栄光館は大学のすぐ側にある。もちろん赤れんがのドーム状の建物で、文学部だから女の子の割合がとても多い。ボクは、山下荘の住人・A君と顔を見合わせた。A君は、マスコミ学の専攻だったので、同じ文学部だったのである。

 入学式なので、ジャケットにネクタイをしていった。故郷にはVANの専門店があり、そこでフラノの三つボタンジャケットを買ってもらっていた。A君もスーツ姿である。A君も「アイビー」であったが、のちに「コンチ」へと大変身する。「コンチ」とはコンチネンタル・スタイルのことで、バギーパンツに細身のジャケットやシャツを合わせる。靴は、先の尖った靴で、若干上げ底になっている。A君もオシャレで、アイビーの服をたくさん持っていたから、「コンチ」に変えるには、大変だったのではないか。

 着慣れない服を着て、京福電車で北野白梅町に着いたら、市電に乗り換える。どことなくぎくしゃくした動きになるのが、とてももどかしい。首の辺りを気にしながら、ネクタイの締まり具合や服の窮屈さが、なんとなく気にならなくなった頃に同志社前に着いた。
 受付で式次第をもらったのでよく見ると、讃美歌とか校歌を歌わなければならない。ボクの家は曹洞宗だし、幼稚園はプロテスタント系だったが、讃美歌なんて全く知らない。皆に合わて金魚のように口をパクパクさせていた。そのあと、A君に「歌ったの?」と聞いたら、いやいやとばかりに首を振った。

 '73年当時は、今出川キャンパスで文学部の授業、新町キャンパスで一般教養の授業が行われていた。今出川から新町までけっこう距離があるので、専門授業があるときは大急ぎで今出川に向かう。アーモスト館とかクラーク館とか、歴史のある建物で授業が行われたが、高校の教室よりも狭いところだったから、気がなかなか抜けなかった。日本文学専攻には、同志社女子高から来たり、スポーツ優待など、いわゆる「持ち上がり」が多かった。彼女たちの振舞いとオシャレ度合いで「持ち上がり」かが判断できた。もうひとつ、「せんせえ、もうちょっと、わかりやすうにゆうてくれんと……」とばかり、教授に馴れ馴れしいのも「持ち上がり」の特徴でもあった。

 大学が始まってびっくりしたのは、学生運動である。学生運動独特の文字で書かれた看板がキャンパスのいたるところに立てられ、赤いヘルメットをかぶった人たちがアジ演説をしている。当時はわからなかったのだが、同志社の学友会は「ブント」によって牛耳られていた。「ブント」とは「社学同全国委員会(社学同統一派)」のことで、同志社は関西におけるブントの拠点として機能していたらしい。

 70年安保の頃に比べると、学生運動はやや落ち着きだしたのだが、同志社大学では授業料値上げや大学キャンパスが田辺へ移転することなどを問題にした闘争を行っていた。ボクたちが1回生のときに学期末テストがあったが、それ以降はテストは中止になり、ほとんどがレポート提出に代わった。

 学生のとき、ボクは少し左寄りの考え方だった。2回生のときだったと思う。授業料値上げ反対の「フランスデモ」があると聞き、参加することにした。「フランスデモ」とは参加者が手をつないで道路いっぱいに行進するデモである。

 デモの前に集会があった。「反動」と決めつけられた教授がみんなの前に引き出される「団交」というやつである。学生たちは教授に「自己批判」を要求する。ところがその教授は学生運動の本質と、現在の行動の空虚さを訴えてくる。隣席していたマスコミ学の教授は、その教授に学生たちの主張を受け入れるように説得する。すると、運動を批判する教授に赤ヘル姿の学生から角棒が打ち据えられた。耳のうしろから血を流す教授に対し、マスコミ学の教授は怪我を介抱することなく、その批判を続けている。A君は「教授に敬意を払わないこと」「怪我を介抱もせずに放っておくという人間性のかけらもない行動」に「これじゃあ共感できないや」と語った。そのあと、ボクたちはデモに参加したが、フランスデモの途中にバイトの時間が迫ってきたのでデモから離れた。そのあと、デモに参加した人たちの幾人かが検挙されたと聞いた。

 同志社大学の学園祭は、創立記念日の11月29日前の3日間に行われる「EVE祭」である。ボクが1回生のとき、当時つき合っていた女の子といっしょに出かけた。つき合い始めてもう3か月になる。SF研のプロレスや女装喫茶、屋台などをうろつき、帰る頃にはもう陽が暮れていた。

 秋の京都の夜は芯から冷える。白い息を吐きながら、手袋越しに手をつないで御所の周りを歩いた。ボクには、彼女にプレゼントを渡すという目的があったのだ。中身は、BALビルのテイジンショップで買った「CLAZY FOR YOU」と彫ってあるフリーサイズのペアリングである。「喜んでくれるかな」という気持ちとともに、もしかしたらキスできるかもしれないという、淡い期待もあった。

 プレゼントを渡したあと、時間が少し止まったような気がした。そのとき、ボクは躊躇した。神様がくれた素敵な時間の贈りものを、ボクはうまく活かすことができなかったのである。
 彼女は、大阪の帝塚山にアパートを借りていた。京阪の三条駅までバスで他愛もない話をしながらボクは彼女を送った。手を振る彼女は、少し淋しさを漂わせていた。

 ボクは四人姉弟の末っ子である。長男が腸閉塞で亡くなり、そのあとにようやくできたボクは、親から溺愛されていた。過保護に生きてきたため、自然押しが弱くなる。女のなかで育っているので女の子とはすぐにうちとけられるのだが、なかなか関係を前に進めることができない。
 三条京阪から北野白梅町に向かう帰りのバスのなか、ボクはふうと息を吐いた。


これからも作品は続きます

僕の『京都同やんグラフィティ』は、1973~1976年の間、
同志社大学(小説では同夢舎大学)に入学し、
京都で過ごした思い出を虚実おり混ぜて小説にしたものです。

「青雲篇」「劣情篇」「堕落篇」という3部作を構想していて、
「青雲篇」は、瀬戸内海の小都市から出てきて右も左も分からない主人公が右往左往する話です。
「劣情篇」は、女性との付き合いが中心になります。初体験から突然のモテ期が到来し、
当時の女性の考え方や愛し方などをつづります。
「堕落篇」は、ひょんなことから学生ビジネス(飲み屋)を始めることになった主人公が、
さまざまなことにチャレンジする話です。

「青雲篇」「堕落篇」をご期待ください。


¥300
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