「生い立ち」のページで少し書きましたが、僕は大学時代にノイローゼに罹りました。そして、僕は自分のことを最低だと思いました。頭に浮かぶ妄想を、多くの友だちに喋ったことがあります。当時の僕が、物事を深く考えずに喋ったことが、今でも噂となって残っているようです。僕の無知が原因だと思い、歴史や民俗を深く調べるようになりました。

僕は、有名大学に行っており、音楽や文学などの多彩な才能を持っていると周りに思われていましたから、そういう人間がおかしくなって、しかも自分を最低だと思っていることに、深く興味を惹かれた人たちがいたようです。「妬み」や「嫉み」の強い人たちにとり、「他人の不幸」は蜜の味だったのでしょう。

僕の名前が売れてくると、なぜかそのことが拡がります。多分、僕が友だちと思っていた輩は、僕を面白がって見ていた人たちなのかもしれません。面白いニュースを仕入れたと考える、卑しい人たち……。

その噂を払拭するために、僕はいくつかのエビデンス(証拠)を出します。「父親」「宗派」「家紋」「戸籍」が、そのエビデンスです。

僕の父親は、明治43年12月27日に生まれました。北条の浅海(現松山市浅海)に生まれ、結婚して満州新京に渡って婦人服と子供服の洋裁を営んでいました。日本に帰る途中で捕虜となり、シベリアで抑留され、帰ってきて、戦前に住んでいた今治に戻っています。

満州では、なかなかに羽振りの良い生活をしていたようですが、シベリアから帰ってきてからは、ミシンの行商から縫製会社を始め、PTAの着る会服や体操服の縫製を一手に引き受けていました。しかし、そのうちに会服のシェアは安い販売店に取られてしまい、歳をとってからは趣味の盆栽や山草をいじることに時間を費やしていました。

うちの父は社会貢献を信条としており、愛媛自然科学教室や今治史談会で、会のお世話をしていました。また、兵隊時代の「郷友会」やシベリア抑留兵の「ヤゴダ会」にも入っていて、PTAの関係から補導のお手伝いもしています。うちの家には、愛媛自然科学教室や今治史談会から父に頂いた感謝状が飾られています。

また、愛媛自然科学教室の会報誌「愛媛の自然」には、教室で子供たちに植物のことを教える人物として紹介されています。その中には、北条地域で初めて自転車に乗ったとか、若い頃にはおしゃれだったというようなことが書かれていたと思います。
僕の父親がこのようなことをしていたというのを、噂を流す人たちは少しも知らないのでしょう。

田中家の宗派は「曹洞宗」です。シベリアから帰ってきた父は、北条の実家から今治に居を移す時に、お墓にあった骨を全て持ち帰り、今治の寺町にある円光寺に墓を移しました。ですから、お墓の下には骨壺がたくさん置かれています。このことからも、古い家柄であることがわかります。

北条を中心とする河野家や眷属たちは、臨済宗や曹洞宗を信奉していました。村上順市著『愛媛の姓氏』(愛媛文化双書)には「大友系図に能通の子能職、伊予河野四郎通信の聟となる。藤北田中の祖」とありますが、この系譜とするならあとで述べる家紋は「折腰三つ折り」になるのではないでしょうか。同じ水軍でも、今治の村上水軍は真言宗が多かったようです。

どういう理由かはわかりませんが、明治維新後、愛媛県の禅宗は、新しく戸籍を得た人を信者にしませんでした。

田中家の家紋は「丸に隅立四つ目」です。この紋を代表するのが佐々木氏であることに、僕は不思議でした。田中とは全く関係ないと思ったのです。
ところが、『えひめ名字の秘密』を書くにあたって、愛媛各地の史誌や文献を調べたところ、『北条市誌』に、宇和島を支配していた佐々木氏が和田郷に移って和田氏を名乗り、その一族が田中に移って田中を名乗ったと記されています。田中氏は北条善応寺村の庄屋となりました。
僕の家には、祭りになると北条から親戚が集まりました。父が北条の祭りに出かけていくこともありました。しかし、だんだんと時代が下るにつれ、親戚同士の関係が疎遠になり、今ではだれが親戚か、よくわからなくなりました。もう少し、詳しく父親から家のことを聞いておけばよかったと思っています。

名字は「苗字」とも書きますが、武士が別の土地に行ってそこに居を構えるようになると、名字を土地の名に変えることがあります。それが「苗」のようなので、「苗字」と呼びます。ルーツが同じなら紋も同じになり、同じ地域にいたことを示します。

うちには、「隅立に四つ目」のついた提灯や漆器がありました。両親が亡くなって、家に残っていたたくさんのゴミをゴミ処理場で捨てる時、漆器も傷んでいたので捨てようとしたら、担当の人に怒られました。漆の器をプラスチックだと思ったようなのです。それを叩いて、中が木であることを確認すると、小さく「ごめんね」と声をかけてくれました。

両親が亡くなった時、荷物を整理していたら、大正9年9月24日に温泉郡浅海村から出された戸籍が出てきました。父親が11歳の頃のものです。田中家は、水軍の末裔がそうであるように農業で生計を立てていたようで「士」や「卒」ではありません。

この戸籍からは、田中家は温泉郡浅海村大字浅海本谷甲七百参番地ノ内第一第二(現松山市浅海)にあったことがわかります。一代前の戸主は源次で、僕の曽祖父にあたります。

僕の祖父は千吉(間違えて仙吉と役場の人が書いたので訂正印が押されています)で慶応2年8月13日生まれ。曽祖母はサキで弘化4年12月10日生まれです。サキは田中利七とミツの間に生まれています。父方の曽祖父は源次。祖母はウタで明治13年8月10日生まれ。祖母方の曽祖父は大内與三八、曽祖母はツ子(ネ)になります。また父にとっては叔母にあたる為がいて、明治29年10月21日生まれでした。

父の兄弟には姉(二女)にトクがいましたが、明治37年8月9日に生まれ、大正6年9月25日に亡くなりました。姉(三女)に明治40年6月3日生まれのツル、弟に大正7年11月20日生まれの進がいます。
また同時に引き揚げ者の申立書類も出てきました。記載内容から、父たちは昭和15年10月19日に日本を出発して満州(山東省済南市)に渡りました。満州で縫製業を行い、使用人を何人も使うほど潤っていたようです。父は、19年には天津工兵隊へ召集されます。終戦後に新京を出たところでロシア兵に捕まって、昭和20年10月3日にシベリアチタ地区捕虜収容所に入り、3年ののちに帰国したようです。母は家族を連れて、日本に帰ってきています。父と母は昭和15年7月16日、満州に行く前に結婚しているようです。

いかがでしょうか。これらが田中家に関するエビデンスです。

「嫉み」や「妬み」を主成分とする噂は、先入観や思い込み、上っ面だけしかない知識、無知、調査不足などによって拡がっていきます。僕がノイローゼに罹ったことが原因で、変な噂が出てくることになったのは重々承知しています。
しかし、噂が嘘であることを証明したいと考え、このページをつくりました。嘘の噂をばらまかれるのは本当に大変で、日常生活に支障をきたすこともあるくらいです。自分で確かめもせず、嘘である噂をばらまく人が少なからずいるのです。自分が加害者であると気付かず、関係のない人たちに害を与えています。そうした自覚もない人たちに警鐘を鳴らしたいと考え、この文を書きました。

また、この記述は、差別を助長する意図は少しもありません。僕も、これを書くことにとても迷いました。僕がこの文を書いたのは、こんな噂をばらまくのは最低の人間だと知ってもらうためです。その人たちを信用してはいけません。また、こんな噂をばらまく前に、しっかりと本当かどうかを調べてください。
でも、変なことをいう人は必ずいるんだろうな……。