両親が亡くなった時、荷物を整理していたら、大正9年9月24日に温泉郡浅海村から出された戸籍が出てきました。父親が11歳の頃のものです。田中家は、水軍の末裔がそうであるように農業で生計を立てていたようで「士」や「卒」ではありません。
この戸籍からは、田中家は温泉郡浅海村大字浅海本谷甲七百参番地ノ内第一第二(現松山市浅海)にあったことがわかります。一代前の戸主は源次で、僕の曽祖父にあたります。
僕の祖父は千吉(間違えて仙吉と役場の人が書いたので訂正印が押されています)で慶応2年8月13日生まれ。曽祖母はサキで弘化4年12月10日生まれです。サキは田中利七とミツの間に生まれています。父方の曽祖父は源次。祖母はウタで明治13年8月10日生まれ。祖母方の曽祖父は大内與三八、曽祖母はツ子(ネ)になります。また父にとっては叔母にあたる為がいて、明治29年10月21日生まれでした。
父の兄弟には姉(二女)にトクがいましたが、明治37年8月9日に生まれ、大正6年9月25日に亡くなりました。姉(三女)に明治40年6月3日生まれのツル、弟に大正7年11月20日生まれの進がいます。
また同時に引き揚げ者の申立書類も出てきました。記載内容から、父たちは昭和15年10月19日に日本を出発して満州(山東省済南市)に渡りました。満州で縫製業を行い、使用人を何人も使うほど潤っていたようです。父は、19年には天津工兵隊へ召集されます。終戦後に新京を出たところでロシア兵に捕まって、昭和20年10月3日にシベリアチタ地区捕虜収容所に入り、3年ののちに帰国したようです。母は家族を連れて、日本に帰ってきています。父と母は昭和15年7月16日、満州に行く前に結婚しているようです。 |