社会人として頑張る
僕は、30歳前に独立して、自分の会社を興しました。広告代理店とのコネもあったので、独立当初から松山にあったラフォーレなどの広告をやらせてもらい、そこそこ稼いで家を買ったら、なぜか急に注文が入らなくなりました。いくらあがいても、以前のような注文は来ず、結局、最初の嫁さんとは離婚してしまいます。
今治に帰った僕は、子供たちの養育費を支払うために収入の不安定なフリーランスを諦め、プランニングを求めていたタオル会社に入社。リゾート開発を考えていたその会社は、大三島での開発を考えていました。
僕は、中央の会社とタオル会社のコーディネイターとして、プラン作成のお手伝いをします。「水軍」をテーマとしたリゾート施設となる予定でしたが、地元の会社が土地を自分のものにしようとしたところから提携にヒビが入り、宙に浮いてしまったのです。
僕は今までの仕事から一転して、社内での縫製部門の責任者となります。自分の思っているところと全く違うセクションに戸惑って、すっかりやる気をなくしていました。
転職を考えた僕は、日本全国を相手にしている金属加工メーカーの宣伝セクションに入ります。約3年で課長代理となり、5年目には責任者となりました。
でも、会社の仕事の他にもやりたいことがいくつもあります。まもなく開通されるしまなみ海道に便乗して、地元では少しも注目されていなかった今治のソウルフード「やきとり」をテーマとする本を出版しようと思い立ちました。
会社に迷惑をかけてはいけないので、朝の4時に起きて、2時間を執筆にあてました。そして会社が終わったらやきとりの食べ歩き。これで体重は10kg増えてしまいます。また、マーケティングはお手の物ですから、地元の人々からアンケートをとって、テーマを充実させました。約半年かけて、本をほぼ完成となりました。
ここで広告屋の血が騒ぎ出します。テーマソングをつくるために知り合いに声をかけ、商店街の協力を仰いで、やきとり日本一宣言の街をアピール。会社に顔がバレてはいけないと思い、二度目の嫁さんが手作りしてくれたニワトリの面をかぶってメディアに登場しました。
食をテーマにしたまちおこしにおける「本の出版」「テーマソング」「イベント開催(マスコミへのパブリシティ)」という僕が行った3つの方法は、こうしたまちおこしの方法の定番となりました。
その後、いくつかの本を書き、松山の出版社から本を出す際、テレビと新聞に声をかけたついでに本名を披露したところ、会長の逆鱗に触れてしまい、退社せざるを得なくなります。今ではこのようなことはないと思いますが、当時の風潮はこうだったのです。前妻との間にできた子供たちへの養育費の支払いが終わったので、退社への踏ん切りをつけやすかったのかもしれません。 |