土井中照の実体験や感覚を基にしたフィクション

初めての小説

僕が初めて小説らしきものを書いたのは、大学時代でした。2回生の時、文学部の同好の士が集まって同人誌を作ろうということになり、初めての小説に挑戦。誌名は「四分五裂」というもので、僕は作品を書くのに「五里霧中」の状態。「一気呵成」に書き上げたのですが、周りからは「無知蒙昧」「笑止千万」と思われたことでしょう。

ブルース・リーを蘇らせたものの、あまりの低俗ぶりに今までのイメージが崩壊するというものでした。他の人たちは、萩原朔太郎論やブラッドベリのような情緒的な短編を書き上げていたものですから、僕の作品は完全に無視されてしまったのです。

処女作は、その後の人生を暗示するといいますが、僕の広告屋人生はこの小説によって決まったのかもしれません。

同人誌で、僕は紙面デザインも担当し、ガリ版ずりで世に出しました。居酒屋で打ち上げができるだけの利益は上がりました。でも、僕が学校に行かなくなっこともあり、同人誌は、まさに「四分五裂」になり「分崩離析」となったのでした。

広告コピーからプランニングへ

僕は広告業界に入り、コピーライター・プランナーとして働きました。当時の広告業界の花形はコピーライターでしたから、僕もその仲間入りです。ただ、名刺にコピーライターと肩書きを入れたら、誰でもコピーライターになれるともいわれていました。

当時のコピーで覚えているのは、量販店の「いきたい、期待」、ラフォーレ原宿松山の「街が色づかないと、秋はさびしい」、放送局の「心に花が咲きますね」といったものです。独立してからはプランニングに力をおき、商店街の活性化策やリゾート計画など、多くのプランを提供しました。

プランにはストーリーテリングが必要で、夢のような計画と現実的な裏付けが必要とされます。人物は登場しませんが、商品や地域が主人公の小説を考えているようなものでした。

公募で力試し

離婚してから養育費のために、僕はフリーを捨てて、会社勤めを始めたのでした。

会社勤めの時、お小遣いがなくなると僕は公募をしていました。デザインが多かったのですが、文章で挑戦したこともあります。デザインは結構多く賞をいただいており、何らかの賞に引っかかった率は5割くらい。

印象に残っている文章には40代の時に書いた、オタフクソース主催のエッセイコンテストに応募したものがあります。お好み焼きを食べる時に、現代美術の作品を感じてしまうという内容てす。「お好み焼き」「現代美術」「食べる楽しさ」という三題噺のようなものでした。この時の賞品は1年間毎月送られてくるオタフクソース社製の調味料。しかし、ソース類は含まれていないのでした。

そして、出版社に原稿を送って見ていただき、ノンフィクションライターとして、愛媛についてのあれこれを単行本として世に出して行きました。小説を書かないかという依頼もあったのですが、なかなか踏ん切りがつきませんでした。

これからの小説

僕が小説を書き始めるのは、60代になってからです。知り合いとエンターテイメント小説を書こうということになり、挑戦したのが『京都同やんグラフィティ』です。自分の体験したことは小説にしやすいという見本のようなものです。

この時の小説への挑戦から、僕は難しいものや抽象的なものを小説にすることができません。今までの体験や、調べてきた時代や事件、地域をモチーフにしたもの、ずっと研究している民俗学的なホラーなどが、僕が書く小説の中心になりそうです。

今までに書きためているものもありますので、それらをブラッシュアップして小説にしていこうと考えています。